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党機関紙[自由民主」4/15日号より

◆私の留学時代 (米プリンストン大学国際問題研究所・客員研究員)
   --留学中の湾岸戦争勃発で日米の考え方の違いを学ぶ--

 私の留学はほかの多くの例と違い、大蔵省で17年間も予算と税の仕事をしてからの発令で行ったものです。平成2年夏から同3年夏にかけての1年間、私がちょうど  40歳のときでした。
 当時、私は大阪国税局の部長だったのですが、もともと旅行が趣味で全国の都道府県すべてを訪ね宿したことがあり、国内のことなら何でも分かると自負していました。そんな中で訪れた紀伊半島のすさみ町の恋人岬で「サンフランシスコまで1万キロ、ホノルルまで6千5百キロ」との立て看板、あるいは高知・桂浜の「海を見つめる坂本竜馬の銅像」を見て、太平洋を渡る大きなロマンに強く衝き動かされたのを覚えています。
 行った先はプリンストン大学の国際問題研究所。私はそこの客員研究員として小さな部屋をもらい”英語”と”研究生活”という二つのカルチャーショックの中で日米関係の研究にあたりました。
 プリンストンという町はニューヨークから車で一時間、小さな、しかしヨーロッパの香のするきれいな町並みで、1600年代にできた大学の現存する講堂は、独立戦争前は東部13州の大陸会議の場でもあったのです。
 そこでの生活は、まず自分の住む家を探す不動産屋回りから始まりました。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」や「『NO』と言える日本」などがベストセラーになった頃ですが、米国の東部、それも田舎の町ともなると日本人に対する理解は極めて薄く、やっと家が決まったかと思うと、同じ条件で後から来たヨーロッパ系の国の人に取られてしまう。物の考え方の違いを身に染みて感じたのですが、この家探しの一ヶ月は滞米3年分ぐらいの価値がありました。
 これが1990年。折から湾岸戦争が勃発しました。これに日本はどう対応するのか。米国はどうするのか。図らずも私ははるか離れた米国東部から見ることになり、日米関係を勉強するのにかなりプラスになったのです。望んでも行けない場所であり時期であったと思っています。
 当時、迷彩服に身を包んだ女性の兵士が赤ん坊を夫に託して中東に飛び出していく。家々には無事の帰還を祈る黄色いリボンが結ばれる。また、ケーブルテレビのシースパンでは議会での議論を24時間繰り返し放送、同時に日本の国会も放映する。そこには日米の考え方の違いが歴然と明らかになりました。こうした経験はその後の私に、外交を考える上で大きな影響を与えたような気がします。
 また、帰国後主計官になり、国会の予算を担当したとき、国会内テレビの予算に積極的に取り組んだのですが、今後も一般家庭への国会中継や世界の議会の放映について真剣に考える必要があると思っています。
 私は趣味嗜好も極めて純日本的な男で、この留学がなかったらもっと視野の狭い人間になっていたと思います。
 

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