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プロフィール

妻の目

月刊AKITA平成12年3月号に寄稿した文章を一部修正して掲載しました。
ゼロからの出発地・秋田で誓った
「悔いのない人生を」
金田 龍子

 今想えば6年前の平成7年3月のことでした。引越しの荷物を出した後、上野駅で一人、夜行寝台「あけぼの」を待つ間、どうしようもない不安感から人目をはばかることなく止めどなく泣き続けたのがついこの間のことのように懐かしく思い出されるのです。

 主人は東北電力に勤務した父親の転勤と共に、県内の発電所や変電所を転々として育ちましたが、その後上京してからは苦学をした大学時代から大蔵省勤務時代まで、大分世の中に鍛えられていたようでした。
 それに引き替え、私は東京で生まれ育ったわけですが、中学から十年間の女子校通いで、もともとのんびりとした性格で世間知らずそのものであったように思います。主人とは年齢が八歳も違い、大人と子供ほどに精神的には開きがあり、結婚生活は驚きと戸惑いの連続でした。
 まして、出会った当時は大蔵省の主計官補佐として、農林省の予算を一手に任されるという激務をこなしておりました。役人時代の主人は、予算の査定を行う九月から十二月までの四ヶ月間は、四時間以上眠ることなく徹夜も度々でした。緊張感で張り詰め、重責と闘いながら仕事をする主人に対し、息を詰めるようにしてただ予算査定の終る日を指折り数えて暮らし、その日が来ると、これでようやくまとまって眠れるとバンザイしたものです。

 でも、一ヶ月約三百時間の残業で苦労している主人を見ると、どうしてここまで頑張れるのか、初めは全く信じられませんでした。国のために働いているという誇りのようなもの、古い言葉では国士とでもいうのでしょうか、そういう気持ちが人一倍強いことが主人を支えているんだということを理解するまで、かなりの時間がかかったような気がします。

 その後、大阪で国税局の部長に、また米国プリンストン大学国際問題研究所の客員研究員に派遣されたときも、迷わず主人についていきました。広く世の中を眺められたことは、私には貴重な体験となりましたし、赴任地で、夫婦が互いに助け合わなければならないことが多く、生活を築きあげる苦労と楽しみを味わうことができ、お互いの理解と信頼も深まったように思われるのです。

 人間が大好きで、にぎやかなのがまた大好きときている主人の影響を受け、私も次第に色々な方とのお付き合いが素直に楽しめるようになっておりました。また、子育てを通しての世間の広がりもあり、多くの友人とのお付き合いなどで結構忙しく、積極的で居心地の良い暮らしを続けていた、そんな矢先のことでした。



動揺・不安から決断へ

 平成七年の正月に主人から、「故郷秋田より参議院選に立候補しないか」という薦めを頂いたと聞かされました。「あら、そう」と受け流したものの、もしかしたらという不安が次第に重くのしかかってきたのです。主人の顔つきが日毎に真剣になり、逆に私は気持ちを取り乱すばかり・・・。
 不安が確実となるのに、それほど時間はかかりませんでした。故郷の県議会の先生方をはじめ、多くの皆さんから「秋田の将来のために是非帰ってきて来てくれ」と強く説得された主人が、意気に感じたのでしょうか、「ここまで言われて、自分のようなものでも郷里の役に立つというなら・・・」と、涙声で言うのです。「ガーン」と頭を殴られたような瞬間でした。まさか決断するとは思っていなかった私としては、驚きのあまり何を言ったか良くは覚えていません。その後主人に灰皿を投げつけたといわれるのですが、そのときの記憶は取り乱していて何も思い出せません。

 大蔵省の職場では、多くの先輩・同僚が引きとめてくれたのに主人は、「主計官という立場だから、決断した以上国会の始まる前に辞表を出さないと迷惑がかかる」と言って自ら辞表を出し、二十二年間勤めあげた職を捨て、一月の二十日には秋田に行ってしまったのです。
 主人のいない部屋で一日中呆然とし、外に出れば官舎の皆様方から「大変なことになったわね」と言われます。どうして突然こんなことになったのか・・・」と眠れぬ布団の中で自問自答の繰り返し、ため息と涙ばかりの日々でした。

 思えば、出会ったときから主人は若い人と公的なるものについて語るのが好きでしたし、「一度限りの人生、どうせなら世のため人のためになる仕事をしたい。金儲けには縁がなくても悪く思うな」と口癖だったのが・・・。途方にくれたまま何もする気が起きず二ヶ月近い日が過ぎていきました。この間、主人は毎日のように秋田からの電話で、「寒い中で苦労をしているけど、いろんな人に助けてもらったり励まされて頑張っているよ」と報告してきます。裏表のない竹を割ったような性格で、喜びや辛いことも全てパートナーの私にぶつけてくるはずの主人が、ストレートに「早く来て手伝ってくれ」とは言わないのです。「苦労しているのではないか」という思いと共に、かつて喜びもあり、悲しみもあった結婚生活が心の中で次第によみがえってきました。激務の傍ら、自分のことは省みずに私と子供の健康に気遣い、眠る時間をさいてまで家庭サービスに努める愛情深い主人が、今こそ私の助けを必要としている。我が身可愛さだけの私は何と情けないことか。頼りにしていた親も、「秋田に行って苦労することはない。絶対行くな」の一点張り。「妻たる私が支えてあげなくてどうする?」と逆に心は決まったのでした。それでも夜行に乗り込むとき私は、主人が無職になっての出発と、初めての秋田での生活に不安で一杯だったのです。



たくさんの素晴らしい出会い

 しかし、秋田で迎えてくれたのは沢山の優しい温かい笑顔でした。同級生や知人はもちろん、選挙のスタッフが荷造りを解くなり、「奥さんがようやく来て気勢があがる」と大歓迎してくれました。赤の他人の皆様にお世話になっていた一方で、自分だけ悲劇のヒロインになっていたことに気がつき、恥ずかしく、妻たるもの二度と涙を流すまい、と心に決めたのです。こんなに期待を寄せてくれる仲間と夢を語り合える主人はもちろん、その女房も幸せ者じゃないかと思えてきました。

 翌日からの慣れないご挨拶廻り、ぎこちないお辞儀や名刺の渡し方、見知らぬ男性との握手等々、ためらいがちな私に先輩議員の奥様方をはじめ、皆様方から親身に教えて頂き、明るく励まされましたことは、心強く何より有り難いことでした。
 秋田弁がわからなかったり、町名も読めなかったり、しゃべれと言われてもろくにしゃべれず、泣いてみてと言われても、もっと笑顔をと言われても、引きつったまま・・・。こんな私を本当に良く面倒見て下さったと感謝するばかりです。

 また一方で、新鮮な驚きや感動もありました。残雪の山々から新緑の美しさへと季節は移ろい、緑溢れる大自然を眺めるのが安らぎの時間でした。また、訪ねた家々では玄関にかぎをかけずに外出しているんです。「他人をこんなに信頼できるんだろうか」と不思議な感動もありました。ご挨拶廻りをした際には、「よく帰ってきたね」「秋田のために頑張れよ」と温かいお声をかけて頂き、その笑顔が今でも浮かんでくるほどで、胸が締め付けられる思いがしたものです。
 無我夢中のまま、どなたにお世話になっているのかも良く分からない様な状態で選挙が終わり、最終日には大勢の方々にご苦労様と迎えられ、涙を二度と流すまいと心に決めた私も感激のあまり涙が止まらなかったのを覚えています。

 あれから五年半、皆様のおかげで主人も国政の場で、故郷秋田のために一生懸命頑張れる喜びを感じながら働いております。私もまずは自分のできる所からと、PTA活動、地域や様々なボランティア活動に参加させて頂いております。一緒に苦労して何かを成し遂げる度、徐々に強い心の繋がりが出来、互いに信頼や共感を持って高めあえる良き友人に恵まれることが出来ました。情の深い秋田の方々が共に支えあっている。そして、世の中はこうした善意の温かさで支えられているのを身にしみて感じております。私のような者でも早く力をつけ、何かしら他人様を支え、生き生きと活動している方々と喜びを分かち合って働きたいといつも願っております。

 議員の妻と言うことで、お付き合いの幅と共に視野も広がり、素晴らしい方々と出会うチャンスを今、多く与えて頂いております。そして幸せなことに、有り難い忠告や色々な人生訓を頂き得難い体験をしながら多くの方々に支えられていることを日々実感して暮らしております。これも、あの時思い切って主人についてきたおかげだな・・・と、今更ながら思い返しております。
 当時、心配してくれた東京の友人に対しても、「秋田は人々が親切で、新鮮な食べ物が豊富で、大自然に包まれており、人間らしくゆっくりとした時間と空間がある。心が和む良い所だから遊びに来てね」と声をかけております。

 六年前、小学校三年生だった息子も中学三年生になります。子供に随分いろんな我慢をさせたにもかかわらず、両親を理解し、私を支え協力してくれます。ある日、小学校の生活表に「親が疲れているようなので、心配をかけないようにしました。」と書いた息子の言葉を読み、親への思いやりに胸が熱くなりました。のびのびと育っている子供の寝顔を見ながら、「ここを故郷として、良い思い出を沢山つくってほしい」と願っております。

 今、振り返ると、いつでも手を貸して下さる心温かい人たちがいて、「頑張ってね」と声をかけて下さる大切な先輩、多くの友人に支えられ、少しずつでも前進し新たな出会いを求めて、一日一日しっかり歩んでいきたいと思っております。


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